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私の略歴年表
1971年4月 神奈川県川崎市で誕生
そのころ製造された車両:14系客車(1971年)
1975年4月 南武線の中原電車区の前にある、新城保育園で幼少期を過ごす。
親の話では、3歳ころには中原電車区の跨線橋を一人で彷徨っていたところを保護されたという逸話もある。南武線は、どちらかというと、時代の最先端の主力の型落ちの車両の宝庫で、当時は、こげ茶色の旧型国電や、カラフルな101系が電車区で休んでいることもあった。もちろん、南武線に、初代の快速が、101系の6両編成で走っていて、当時の停車駅は、川崎・武蔵小杉・武蔵溝ノ口・登戸だったことも覚えている。また、この時に父に渋谷の場外馬券場に連れて行ってもらい、武蔵小杉から渋谷まで、東急の7000系の急行やアオガエルの5000系の各駅に乗った記憶もある。
そのころ製造された車両:キハ66系(1975年)
1977年 川崎市内の小学校に入学。1年生の10月に川崎市内の小学校に転校。小学校3年生までは、プラレールでレールなしで本を駅がわりにして地味に遊び、小学校高学年に従兄がNゲージを持っているのを見て、Nゲージに興味を持つ。小学校5年でNゲージデビュー。初めて親に買ってもらったNゲージは、TOMIXのレールセットBとKATOの457系の3両(クハ455 モハ456 クモハ457)。読み書きができるようになったころには、小学校生活の合間に、親から時刻表を買ってもらい、新聞広告の裏の余白で空想日本旅行の旅程を書き込む訓練をする。そのころ、「私の旅スタンプ」が流行し、全駅を最速でスタンプを押す旅程を立てることがマイブーム。リアルな旅行は、夏に、母親の実家の帰省で、新潟県新発田市の母親の実家の往復。小学校3年までは、行きは165系の急行佐渡1号で新潟まで行き、新潟からは115系1000番台の冷房準備車の白新線で、新発田まで行く。小学校4年頃から、佐渡1号を新津で下車し、新津から羽越本線で新発田へ。当時、新津から新発田までは、165系3両編成と豪華だった。帰りは、特急ときの181系か183系で帰り、今思えば罰当たりだが、当時は183系に乗るとラッキーだと思っていた。たまに村上始発の急行佐渡52号で帰ることもあった。小学校5年になると、単独行動で、当時東北本線・磐越西線経由の、キハ58の非冷房の急行いいでで新潟に行く。もち、夏なので、窓をフルオープンにして、顔を出していた。ああ、当時の国鉄は、なんと危険な行為を小学生にさせていたんだったのだろうと、昭和の時代を懐かしむ。
そのころ製造された車両:キハ40系(写真はキハ47)(1977年)
1984年 川崎市内の中学校に入学。中学校3年に横浜市内の中学校に転校。中学に入学すると、バスケ部に入部し、万年ベンチウォーマーで、試合に出る機会はほぼなく過ごす。鉄道活動もほぼ休止。新潟への母親の実家の帰省と、親につくば万博に連れて行ってもらい、行きは12系の臨時列車に乗った記憶がある程度。中学校3年で転校すると、学ランデビューと同時に、怖い服装の兄貴たちに囲まれ授業を受け、修学旅行や遠足などの行事も参加。卒業旅行で一人旅で、18きっぷで関西デビュー。親父に最寄り駅の戸塚まで車で送ってもらったが、飲んでいた親父が検問に引っかかったが何とかパス。昭和の時代は寛大なり。165系の12両編成の大垣夜行に初めて乗車した。
そのころ製造された車両:211系(1985年)
1987年 神奈川県立高校に進学。何を血迷ったか、バドミントン部に入部。この3年間で部活でほぼ時間をとられ、鉄道活動はほぼ休止状態。もちろん、勉強も休止状態だったので、全く勉強をしなかったと言っても過言でない。天罰が下り、高校卒業後には、1年の予備校通いの浪人生活が待ち受けていて、殊に浪人時代の年明けには、精神構造がおかしくなりそうになった。
そのころ製造された車両:213系(1987年)
1991年 都内の私立大学に進学。学業はそっちのけで、バイトと旅行、サークル活動に明け暮れる。大学1年の時に鉄道研究会に入会。2年で退会。大学1年生鉄道研究会では、「連結器」という雑誌の編集のため、夏休みに当時の京阪京津線を取材する。まだ地下鉄になる前の京阪京津線で、碓氷峠に匹敵する66.7パーミルの勾配に平行する道を、汗だくになりながら歩く。大学の4年間で、当時の国鉄線を全線完乗を果たす。鉄道活動をフルスロットルで全開し、春・冬・夏休みには、北海道・四国・九州へワイド周遊券を利用し、2週間から20日フルで滞在する。このころレンタカーやYHを覚え、殊に、四国に当時あった「定福寺YH」に宿泊したときの5大修行で、国道(酷道)439号線をレンタカーで走った時に、山中のガードレールにガチでこすり、レンタカーの営業補償2万円を請求され、レンタカーは、NOCまで入らなければならないことを悟った。
そのころ製造された車両:JR九州キハ200系気動車(1991年)
1995年 大学を卒業し、就職氷河期一期生で、都内の当時は弱小スーパーだったが、今ではかなり大きなスーパーに就職。労働基準法など存在しない世界に放り込まれ、かろうじて完全週休2日制だったが、労働時間は1日平均13時間と、完全社畜。もちろん鉄道活動は、心の深層部に封印された。その後に結婚し、転職活動を繰り返す生活を送り、社畜ライフが当たり前の生活を送る。
そのころ製造された車両:JR北海道キハ283系気動車(1995年)
2013年 転職を繰り返し、40歳を超えると転職がだんだん困難になり、現在の保険業界に就職する。最初の3年位は、研修生として準社畜として鉄道活動は封印。その後は、フルコミッションといった給与体系に変更を余儀なくされる。裏を返せば、仕事がない時間が結構発生したことがあったので、鉄道活動を徐々に再開し、仕事の空き時間にYoutuberを始める。その後、SNSを始め、TwiterやInstagram をかじりながら、ブログを始め、現在に至る。
そのころ製造された車両:北陸新幹線用E7系(2013年)